三重県津市の津まつり

明治時代

江戸時代とは三重県の津市の様子も変わってきました。

明治時代になる頃には廃仏毀釈や神仏分離令が政府から出されることもあり、 長い歴史を誇る津まつりも中止になる時がたびたびあったようです。 ですがやる時は盛大に、各町の見せ場である出し物は年々派手でインパクトの強い 企画が増加していく傾向が強かったそうです。 これから毎年実施できるかわからない、ならばやれる時には全力で取り組もう、 と町民の皆さんが一致団結して盛り上げることを誓ったのでしょう。 毎年開催されるという安心感は捨てがたいですが、来年はどうなるのか、再来年は 盛り上がれるのかを考えながら畑仕事をするのも緊張感があっていいのかもしれま せんし、当時の三重県では津まつりに対してマンネリ化してるな、と感じる人は 少なかったのもこれが理由になっているのかもしれません。 行列もちょっとした物真似レベルではなく、巨大なカラクリ人形や芸奴踊りなど 観客の目を奪うための力作が多くなってきたそうですが、数少ないチャンスを 逃さないのはさすが津市民といったところでしょうか。 明治時代にはどんな生活をしていたのかいまいちピンときませんが、現代よりも 娯楽が溢れてはいなかったでしょうしみんなで楽しめる機会はそれほど多くは なかったのではないか、と推測されます。 「今度の休みはみんなでカクレンボ大会しようよ」とか「来週の日曜、揖斐川 に行って松坂牛やカボチャを焼いて食べないか?」と企画されることもあまり なかったでしょうし、大きさに関わらずイベント発生率は今よりも低い日常で 生活をしていたと考えられています。 ですのでいざお祭りとなったら大騒ぎをしたい、と津市民は常々企んでいたと いう仮説はそんなに的外れでもなさそうです。 大正時代になると津まつりの日程は変更され、それまでの旧暦の8月15日から 10月17~18日になります。 二日間だけなので規模は小さくなった気はしますが、きっとその分密度の濃い 充実した熱い二日間だったのでしょう。 八幡神社から神輿が出発するのは10月15日で、17日と18日は氏子町を 練り歩き、最終日の日が暮れそうな時間に岩田橋北詰でみんなが高張りちょうちん で見送って終了となります。 この時代の津まつりは行列の様子も昔とは違い、一段と豪華絢爛に進化をしている との伝承も残されております。 地元のお店もこの期間はほとんどが休みとなり、お祭りを盛り上げるべく境内には 数多くの露天が並んでいたそうです。 どんな露天だったのか、それは今でもあるような金魚すくいや射的なんかもあった でしょうし、わたあめやタコヤキを調理してお客さんに提供する飲食関連もきっと あったのだと想像できます。 フランクフルトやクレープの露天は時代的にまだ存在しなかったかもしれませんが、 ギリギリラムネは露天にも登場していたかもしれません。 三重県ではいつ頃からラムネが流通したのかはっきりとはわかりませんが、明治 時代には国内でも製造されていたので大正時代には津まつりでも、あの独特の形状 をした瓶をみかけることができた可能性もあります。 いつの時代もお祭りは楽しいもので、子供の頃の思い出としても上位にランクイン する大きなイベントです。 もちろん年齢に関係なく楽しめますし、津市民の大人たちもこの日は昼間っから 日本酒を飲んで愉快な気分になっていたのでしょう。 今ならビールやワインで乾杯する人もいるでしょうが大正時代だとお酒といえば 日本酒のことになりますし、うなぎをつつきながらおいしいお酒を飲んで年に一度 の津まつりを満喫していたと思われます。